荻野瑞穂展[Midnight Walking] Mizuho Ogino

1999.8.19-8.28

 

 

展覧会評

原久子 Hisako Hara (タウン アート ギャラリー)

中川 朗  Akira Nakagawa
いわば、ここで二つのさまよいを経験することになるのだ。一つは叙述内での、そして叙述外での。そして、作品を構成させるための叙述外でのさまよいを体験することによって、徐々にスロープを下るように作品の世界に降りて行くことになる。 男の子と女の子とスライドで壁面に照射される。これは物質感を欠いた、そして同時に生命的な躍動感をほとんど消滅した、いわば夢幻的な表象だ。そしてここに、人間から魂が抜けて体温を失って行くような瞬間、あるいは生と死、昼と夜との境界が永遠に続き、彼らはそこにさまよい続けるような感覚を覚える。 真夜中に出歩く者と聞くだけでは、そこに秘められた物語に想いをいたすのは難しい。しかし、ここで「夢遊病的」という言葉を与えれば、イメージにある程度の輪郭をつけることが出来るだろう。眼が微睡みに落ちたまま、眼前の事象がうすぼけた色彩の中に沈んで、エッジが限りなく背景に埋もれていく世界。それは、単に認識のブラウな、ぼやけなのではない。はたしてこれは日常という現実ともう一つの現実との境界線上に現出する世界なのか。あるいは、夢の中を巡りさまよい見える世界なのか。ともかく、いずれにせよ夢遊病という、境界線上をさまよう者たちの眼から見る世界であることはたしかだろう。
また、荻野は自分の作品を、その製作上の変化の過程の下には見せない。修正に修正を加え、当初の着想から異なってもそれを否定しようとはしないのだ。いわば、その創造性において、作家の中では作品が永久運動を繰り返している。とはいえ、鑑者の眼に映るのはその一断面に過ぎない。いわばそこで、鑑者は作品を自己の観たポイントで微分し、連鎖・組立直すことでその創造過程に加わる。自己の観た点の連鎖あるいは、作品群の中をさまよいまわることである。こうして私たちは作品に巻き込まれて行くのだ。